@世界

私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

日々はまるで物語のように

目覚まし時計が一階で鳴る。這いずるように布団をでる。転げ落ちるように梯子をおりる。目覚まし時計が止まるのと炬燵のスイッチが入るのはほぼ同時だ。カーテンを開け、お湯を沸かす。ここで再び睡魔に負ける。ここまでは毎日のルーティーンだ。

まだ眠りへの未練を断ち切れないけれど、珈琲をいれてトーストを焼く。授業は午後から。でも、テストもあるからどうにかこうにか学校に向かった。

研究室はもう開いていて、誰かが生活をしている。私は音楽を聞きながらだらだら勉強をする。あーあ、お昼を食べ損ねた。

ここ数日、Nikki Yanofskyばっかり聞いてる。アレンジとか構成とか面白いし参考になる。声もいい。でも、スイングしないしジャズじゃない。

あんまり勉強してないけど、テストを受ける。学生証の提示を求められて財布を忘れたことに気づいた。あーあ。

テストが終わった。お腹がすいたけど、ご飯が買えない。研究室に戻る。30号はいい感じなんだけど、遅々として進まない。でも、めちゃめちゃに心をこめて描いているので愛着がある。コンクールに出す予定だけど、賞が欲しい気持ちはあるけど、大賞になって買い上げられちゃったら悲しいな、とかくだらないことを考える。100号はまたいろんなチャレンジをしてみているけど、まだまだどうなるかは未知数ってとこね。でもそれなりにワクワクはしてる。

いつもはあっという間に22時を回っちゃうのに、今日はお腹が空きすぎて20時には帰宅。ご飯をかっこんで、ようやく落ち着いた。早く帰ったしいろいろしようかとおもったけど、食後の眠気であんまりできなかった。明日のためにシチューを作って、湯船につかって、じゃあカフェーコレットでも飲んで寝ようかな。

おやすみ。いい夢見たらいいよ。

ヴぁ り ゆー?

久しぶりに考えるということがとまらない。

昨日とある教授と話をした。その人は私の話を聞いてくれた。すごい。すごいことだ。飲み会の最中で、私がどうして絵を描いてるのかみたいな割とまじめでしかも落ちのない話を、酔っぱらいの絡とかそっちのけで、すごくちゃんと聞いてくれた。最後までやめるなという風に聞いてくれた。すごい。私の話を価値のあるもののように扱ってくれた。

そうやってきちんと話をしたことによって久しぶりに考えるということをした。

でも、中学生くらいの時からつい去年くらいまで、私は考えるということしかしてこなかったし、考えるということに至った体験とかもあるから、それを全部一回さかのぼらなくちゃいけないということになってしまって中々大掛かりな作業だ。でも、一回やっておくとこの後考えるときにいいかなって思うから、ちょっと時間がかかっても自叙伝的なものをまとめておこうかと思う。それでまた、少し考えるということをしてみようと思う。辛くならないで、ニュートラルな気持ちのまま、考え続けることができたらいいな。

それだけさ。ただし、それは諦めではないよ。

1こ下とか2こ下の後輩たちの作品を見たり話を聞いたりしていると、ああ、思想は違えどかつての自分もこんな風にとがっていたし熱かったなあと思って懐かしいような悲しいような苛立たしいような気持ちになる。今の私に情熱がないわけではないのだけれど、その質や方向は全く別のものに変わってしまっているし、そもそもの温度が下がってしまっているような気がする。

中学生の時に書き始め、高校生の時にはその詩を作品に昇華した。1年の時に主張やら鬱屈やら不満やらがあふれていて、言葉にせずにはいられなかったし、2年の時だって考えたことは言葉にしないと消えていってしまうということが怖くて仕方がなかった。でも今はほかの人に押し付けてまでどうこうしたいというようなことは一つもないし、ただ絵を描いていれば満足だ。ちょっと前までは、自分にそういう変化があったことやその熱さが失われてしまったことが怖くて仕方がなかったんだけど、最近はそれすらない。自分がのぞんだ形はこうだったのだということがわかる。

それがどんなに無為なことに思えても、つらいことよりは自分が楽であることや楽しい状態であることを幸せと認めることにしたのだから、これは正しい状態なのだ。昔みたいな言葉はもう私の中にはないし、同じ質の情熱も私の中にはもうない。今の私にある情熱は、ただただ絵の具で現実を捕まえるということだけなのだ。

美学のセンセイがそんなのはこれからの時代どこにも必要とされないといったけれど、そんなことは上等だ。私は絵で何かをどうこうしたいわけではない。それはどちらかといえば教育でやりたいことであって絵画がやるべきことではないのだ。絵画を鑑賞するのが好きという人がいた時にその人が見てなにがしかの感情の揺れ、それも私の場合は絶対にプラスの方向がいい、がもし起こったら幸せだなあということ以外に何も望みはしていない。自己満足だよ。何が悪い。その表現によって私という一個の人間が幸せになれれば、それはすでに力であるのだ。

あとは自分を幸せにすることだけなのだ。自分と、自分の幸せに必要な人を幸せにするだけ。努力のうえでようやく手に入れた穏やかさをみすみす捨てることはないよ。自分がそうしたいと思うことを、そうなりたいと思う風にればいいんだ。それだけさ。

 

ハッタリの美しさを持て

百田尚樹のモンスターでした。まあ面白いんだけど、百田尚樹の本って全部感情に欠けるというか、感情が計算されているというか、最初から最後まで計算ずくで書いているのが見え見えでうーーーーんと思ってしまう。

どの作家だって計算はしているに違いないんだけど、核にあるのは感情というか主張というかそういうものだと思うんだけど、百田尚樹の場合は面白く見せるという計算と思想があって、小説は手段にすぎないというのがひしひしと伝わってくる。

まあ自分が女であると自認している人のほとんどは自分のことが醜いと思った経験があるのではないかと思うし、多少なりとも容姿に振り回されて生きている人が多いだろうから多少なりと共感がある部分はあるんじゃないの。でもほとんどの女はこういっちゃあなんだけど不細工に類されると思うし、どれだけ自分に自分が美しいと信じさせられるかが大事らしいということがちょっとわかってきたよ。私はきっと美しい。

 

最近ぬるまったい毎日を過ごしている。めためたに辛いことはないけど、やるべきことはいくらでもあって、でもやらなくてもどうにかなるから適度にはやるみたいな感じ。

周りは就活だー卒論だー教採だーとひぃひぃ言っている中ぽけーっとしながら生きている。サークルの人間関係がめんどくさくなってそれに伴ってjazzに対するモチベーションがなくなっていったりしながら絵だけに逃避したい気持ちが続いている。はあ。

もうやるしかないことはわかってるんだよ。勉強も絵も演奏も。あと一年しかないんだから。進学するにしたって私の大学生生活が一年で終わってしまうということに変わりはない。やりたいこともやるべきこともたくさんあるんだ。あるよね?あるよ…大丈夫だよ……!

もはや風前の灯火となり果てた情熱を必死で守っているよ。それこそが私に残されたただ一つの財産なのだから。

終わらない戦いと戦友の記憶

百田尚樹のボックスを読んだ。わが敬愛する父親がとても面白いと言っていたので読むことにしたんだけど、まあ永遠の0ほどの感動はないかな。

まずは古い。めちゃくちゃ古い。私は特にフェミニストというわけでもリベラルなわけでもないけれど、それでもこの文章はないなあ……と思う。言葉自体も役割語が多くて幼稚……というか小説を書きなれていない印象が強い。関西弁だったのもあるかもしれないけど、それにしてもちょっとなあと思った。この人は小説家ではなく、思想家なのだと思う。ただ小説という形態をとっているだけで。永遠の0の時も現代のシーン、特に姉の恋愛事情のところはかなり不自然だったし、どう考えてもいらないし、それさえなければという感すらあったからまあそういう作家なのだろうと思う。

でもまあストーリーそれ自体は面白くて、だからそこそこ読めるし一回読んでおいてもいいんじゃないだろうか(適当)

さて新春なのでそれっぽいことも書く。

この半年間、ひたすら将来から目を背けて逃げ続けていたんだけど、それをやめる決意をようやくした。これでまた私は受験生になるわけだ。必死になろう。

不思議なことは、この半年間、私は自分が将来から目をそらしているということに気が付かなかったことだ。私の道は八方ふさがりだったわけではない。ただ、どの道を行くにもそれ相応の努力が必要になるという事実から目を背け、一番楽な道を探して、見つからないと嘆いていたのだ。必死になる覚悟さえあればなんてことはない。

実家に帰ると、昔私が読んで胸を熱くした作品や、幼い私が作った作品たちがたくさんある。3年前の私が、4年前の私が、5年前の私が、今の私に語るのだ。忘れていた何かが鮮やかによみがえる。よみがえる。

国は南に日は西に

村上春樹国境の南、太陽の西。読んだ。あっという間に読める短い作品だった。

 

 一人っ子のことはよくわからないし、38の男のこともよくわからないけど、人生にパっとする時期としない時期があることとか、どうにもならないろくでもなさがあることとか、自分が望むと望まないとにかかわらず、人間は手前勝手に人を傷つけることができる生き物であるとか、そういうところに共感があった。

 村上春樹は当たり前のことを当たり前に、わかりやすく、かつブンガク的な調子で描くのがうまい。

 昨日かわいい後輩と飲みに行ったんだけど、振り返ると私はとてもかっこ悪いし、つまらないことをたくさん言ったし、きちんと話を聞いてあげられなかった。前はそういう言葉や行動をひとつひとつ取り上げて反省して落ち込んで鬱になるみたいなことをしていたんだけど、今はそうではない。まあ多少反省はするけど、もう、ずぎてしまったことだ。色々諦めたり体のせいにすることで、かなり明るく生きていける。時々、考えていないことに対する罪悪感みたいなものもあるけど、でもあのくらい日々に戻るよりもずっとずっとマシなんだ。

 さあ、楽しく生きよう。明るく生きよう。嫌なことはある。辛いこともたまにはある。でも、それはただそういうこともあるっていうだけのことだ。ただ受け入れればそれでいいんだ。すっきりと悲しいルノワールの花の習作のように。美しく。

私は絵を描く人になりたいの

職人的に絵を描きたい。芸術家ではなく職人になりたい。それは芸術家になるよりもっと大変なことかもしれない。芸術家の成功はおそらく表現をすることだ。自分の言いたいことを言えたら価値であり勝ち。伝わればなお良し。では、職人の成功とは?ものとして価値のあるものを生み出すことだ。日常に在ることで、絵画というモノとしての価値を持つものを作ることだ。ある人の言葉を借りるならば、少なくともまっさらなキャンバス以上の価値のあるものを生み出す技術と力がほしい。

昔絵描きが社会的にも職人であった時代、絵の面白さというのは単なる写実ではなく、神話やイコン・聖書の一部として、或いは現実のパロディやアイロニーとして、物語を含み、それが絵画のモノとしての価値を高める一つの大きな要因であったことは疑いようもないことだ。その中で、ものをものとしてただ描いて最大の価値を持たせたのはセザンヌだ。本当にすごい。本当に本当に本当にすごい。田原マハの小説でいうところの、「リンゴ一つで世界をかえた」ということ。それまでにも少数ながら静物画で身を立てていた人はいるけれども、寓意や象徴性も一切なしに、ものを描いて世界を変えたのは、私の知る限りではセザンヌただ一人だ。私もそれがしたい。

スーパーリアリズム、と呼べるものに、最近ようやく指先がかすかに触れたような気がする。ただ単に、現実と比べて間違っているところはいちいち直していくというただそれだけのことだ。より正確に世界を見つめ、自分の目に対して誠実であればそれでいい。大切なのは、自分の見たものに対して絶対に嘘をつかないことと世界に対して感動し続けることだ。その、「絶対に嘘をつかない」という部分が、やっと体で理解しつつある気がする。淡々とより正しいものを目指して画面を直していると、頭の中がすっきりして、気分が高揚して、視界がクリアになる。それは自分の中に一つ、より美しい世界を閉じ込める作業なのだ。つまり私は絵を描くことが好きなのだ。表現することではなく、絵を描くという「作業」が。

これは多分私に向いているんだと思う。昔からそうだ。過剰に表現しようとすると良くならない。表現したいという欲求や想像力とか世界観みたいなものは、元々は人一倍持ち合わせているんだけど、それを絵画やデッサンでしようとすると、なぜか絵がダメになる。感情的にならないで、見たものを過不足なく描くことが大事だ。表現したい気持ちをぐっと押さえて書くこと。ただ単にその方が私に向いているって話だ。でも本当は、きちんとモノとして価値のある絵画を描いてその上で私の感情や感動はほんとは伝えたい。伝えたいな。