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私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

昼間の桜メンヘラ女

今読んでいる本はモームのお菓子と麦酒。本当は月と6ペンスが読んでみたかったんだけど、なかったから。聞いている音楽ははちさんの曲。辛くてちょっとジャズは無理。無理。

最近人間関係の歯車がガラガラおかしくなってる。噛み合わないよ。どうして。他人に色々求めすぎているのかな。努力が足りないのかな。どっちもあるよね。

なんかやりたいこととかやらなきゃいけないこととか多すぎて到底自分にはできそうもなくてだからやる気もでなくて全て爆発四散すればいいし私は死ねばいいみたいな気持ちになりがち。

最近考えるということが復活してきてそれに伴って辛い気持ちになりがちなんだけど、ちょっと前は考えられないことに恐怖を感じていたのだしもうどっちでもいいしなんでもいい。でも幸せになりたい。

優しくしたいし優しくされたい。愛したいし愛されたい。

楽しい時には死にたいし、嗚呼もうなにもかも終わりたい。何者にもなりたくない。素直になんかなりたくない。誰かこっちを見て。誰か助けて。

まったくため息がとまらないよ。

最近酔っ払ったおじさんにセックスの話を強要されるみたいな事態があって、それにともなってまたセクシャリティの話とかを色々考えたので書き留めておく。

 私は恋愛とかセックスの話をするのがすごく苦手だ。まず前提としてセクシャリティのはなしをするのと自分の恋バナの話をするのはちがくない?ということ。もっとわかりやすく言うと下ネタと自分の性生活の暴露は違うでしょ?ということ。下ネタというのはセックスとか性器とかにまつわる事実にウィットを効かせてジョークにするということで、別にそれは気にならないというか、冗談として面白ければよし!みたいなふうに思うんだけど、それと自分の性生活の暴露(例えば誰とセックスをしたとか何をおかずに自慰をしたとかそういう話)をごっちゃにしている人がたまにいてそれは全然笑えないし聞きたくねーよという感じ。伝わったかな。

 それで、セクシャリティとはどういうことかとか、自分のセクシャリティ観みたいなものを話す上で、事例の一つとして自分の感情の動きとかを一歩引いたところから話すのはあんまり抵抗がないんだけど、自分が今している恋の話とかキスはどうだセックスはどうだみたいな話を自分のストーリーとして要求されるのはすごく苦手だし嫌。それは、みんなと同じような気持ちで恋愛とかができないというコンプレックスとかもあると思うんだけど、でもそれにしてもどうしてみんなそんな風に恋愛しないと生きていけないみたいな風に思っているのだろうか。どうして恋愛がこの世でもっとも素晴らしいもので尊いものみたいに思っているのだろうか。いや、別にそれは構わないんだよ一向に。そういう人が居ることは知ってるし、ただその人がそうなんだというだけのことだと思うんだけど、自分以外の人もみんな恋愛が最高みたいに思っていると信じているのはなぜなんだろうと思う。そうじゃない人もいるよね?アセクシャルとかノンセクシュアルとかの人だっているよね?別にそうじゃなくてもゲイでもビアンでもヘテロでもバイでも、別に恋愛にそんなに興味がない人だっているでしょ?

 なのに、多くの人は私が恋愛とセックスが生活の中心の女子大生だと信じていて、そのストーリーを消費したがる。恥じらいながら、しかし赤裸々にセックスを語ることを要求し、あわよくばそのストーリーに自分を組み込む夢を見て、私を勝手に消費するのだ。若い経験も少なくて自分の思い通りになる女として。たまったもんじゃないと思う。

 別にね?そういう消費をされることに快感を覚える類の女もいるわけ。だからそういう人とすればいいじゃん。あっちに座ってたずっとパンツが丸見えのビッチだったら喜んでしてくれるでしょ?と、思うわけ。

 それに私の性自認は女で普通に女として見られることが不快というわけではないの。それに私が女としてのストーリーを差し出すことで、自分に得るものがある(例えば慰めや癒し、気遣いや思いやり、あるいは権力を得られる)ならば、それを差し出すことはやぶさかではないの。ただ、自分で売った女を、対価を持った人が買うということと、なんの対価も払わずに人の女をつまみ食いしたいということには雲泥の差があると私は思うわけ。

 すごい話がごちゃごちゃしちゃったんだけど、何が言いたかったのかというと、多くの人が、人は恋愛を中心に生きていると信じ込んでいて、そうじゃない人が居るということに気がつかないということ。それから対価を支払わずに「女」ということをタダ食いするおっさんが多いということ。あとはそれに私が辟易しているということ。長くなっちゃったしわかりにくくてごめんね。

人間が関係していく

ハチ(米津玄師)さんの曲がめちゃめちゃ好きだ。大学に入学してからというものジャズ以外の音楽をほとんど聞いてこなかったのだけれど、最近、中高生の時に聞いていたJ-POPとかボーカロイドとかアニソンとかを聞きなおすとめちゃめちゃよかったりする。昔は歌詞とメロディラインにしか興味がなかったけど、今聴いてみると一つ一つの楽器の工夫とかが見えてきたりする。これはジャズをやってみたお陰だと思う。それだけじゃなくて、歌詞とかも思春期の時にあれほど陶酔しておきながら、青臭いといってここ3、4年は切り捨てていたのだけど、改めて聞いてみるとすごいいいことを言っていたりしてびっくりした。こういうことがあると生き続けるとか経験を積むということも悪いもんじゃないなと思える。

 私は絵を描くのが好きで、歌を歌うのが、特に最近はジャズを歌うのが好きで、人と話したりするのも結構好きで、そういう好きなことをしつつ、世界のシステムに巻き込まれながら生きていて、そういうのが時々苦しい。こんだけ好きなことをやっていてやらせてもらっていて、わがままだろっていう自覚はあるけど、それでも時々苦しくてたまらなくなる。

 幸せに生きるための試行錯誤はしてきたつもりだ。特に人と関わるということについては人一倍努力してきたと思っている。元々すごく苦手で、ここまで普通にしゃべれるようになったのは(それでもまだ「普通」になんて及んでいないかもしれないけど)普通の人の何倍も努力していると思う。多分。それともああして普通にしている人たちは私よりも苦しんであの人格を手にしているのだろうか。そうだとしたらごめんね。でもとても信じられない。

 何が言いたいのかというと、その努力をしていない故に話すのが苦手なのに周りの人がちやほやしてくれてるからそれでどうにかなっている人が好きじゃない。同じ努力をしている人には敬意を払いたいと思うし、それにたいするの思いやりを持って接したいと思う。けど、その努力をしていない人が当たり前のように私に気を使ったり思いやりを持つことを要請するのはムカつく。流石にだからといって実際何も気を使わないみたいな大人げないことはしないけど、でもこの人はその努力をしてない人だという評価を下すことはためらわないでおくことにしている。

 もちろん、私がそう断罪されることも厭いはしないよ。他人に厳しい評価を(私は厳しいとは思っていない、過不足のない評価だと思っているけど)下す以上は私も厳しい評価をされるんだろうことは想像に固くない。みんな私の見えないところで私に対する評価を下しているんだよね。

 はあ、他人について偉そうに色々いうことなんてやめたらいいし、いいとこだけ見といて誉めそやしておけばいいのにね。それはそれで辛くなるてんだから、もうどうしたらいいかわかんないよ。私はただみんなに幸せであってほしいし、私も幸せになりたい。みんなとうまくやりたいなあ。でもそれをするにはみんな、もちろんわたしも含めてだけど、自分勝手すぎるし、受け入れる努力をしなさすぎだよね。受け入れる努力をしない人の分も受け入れる努力をして疲れるのはもうやめたんだ。いいよね。結局わたしも私が一番幸せになりたいだけの屑。

感傷、干渉、緩衝・・・・・・?

別れの季節だ。大好きな人達としばらく会えなくなるのはすごく悲しいと思うんだけど、そういえば普段もやたらにあっていたわけではないんだよなあ、と思うと実はさしたることではないのかも知れない。これは私だけの感覚なのかもしれないけれど、普通の友達とか先輩とかって近くて遠い。自分のなかですごくおおきな存在感を持っているけれども、結局のところ他人という枠組みを出ることができない。そのこと自体がもどかしかったり悲しかったりするけど、だからといってなんにもならない。どうにかしようという意思もないのだから。他人の人生を背負う覚悟など。

でもなのに急に今更、自分の人生を背負う人がいないことが空恐ろしく感じられるのはなぜだ。睡眠不足で精神が不安定だからだよ。今に始まったことじゃあないでしょ。最近ずっと不安定だもんね。

違う、今日はその話じゃないんだ。私は別れるというのが苦手だなあと思うったんだよ。大げさに雰囲気に酔うのも気恥ずかしくって無理だし、かと言って無感動でいることもできないし、何を言ったらいいのかわからなくなって、その場から逃げたくなってしまう。でも、どこにも行き場はない。私だって本当はみんなのことが大好きなのにそれがきちんと伝えられないのはなんでだろう。もう、あの人たちがいる日常は二度とは帰ってこないのに、伝えたいことがたくさんあったはずなのに何一つ言葉にできないまま、まっすぐ瞳を見つめることすらできないまま、もうこのまま離れ離れになってしまうのはどうしてなんだろう。また4月には新たな出会いがあって、その子達と仲良くなってまた離れていくのはどうして、どうしてそんなこと繰り返していかなくちゃいけないの。

最近、全部書ききる前にめんどくさくなっちゃうのよ。だめねきょうもしりきれとんぼ。

亡霊は未だ背後に。逃れられない。

孤独な時は本を読む。本を読んでいる時は寂しくない。面白い本だといいけど、別につまらなくたって構わない。活字を追いかけているということが大事なのだ。そこに私以外の人生が、ストーリがある。

この期に及んで醜い私の亡霊が私を追いかけてくる。そうだ、忘れることなぞ許さない。お前は人よりも醜いのだ。愛される資格などないのだ。それは幻想であるはずなのに、心無い言葉が、視線が、私の妄想を現実にする。ああ、私はやっぱり醜くて愛されない人間だった。

醜いコンプレックス、だいぶ克服したつもりだったけど、だめだね。あからさまに可愛くない扱いを受けるとめちゃめちゃ傷つく。わたしの容姿をいじるのはわたしの一番の地雷だと思う。すごい明らかに上滑りしたお世辞もいやなんだけど、それでもお茶を濁してくれた方がまだましだ。どうにもならない私の弱点だ。20を過ぎた醜い拗らせ女の末路が重なる。

努力ならしてきたのに。可愛くなるための努力。楽しく話すための努力。可愛い子は可愛いというだけでどうにかなってきたものが、私はどうにもならなかったから努力するしかなかった。可愛くなる努力。貶められても卑屈にならない努力。他人の悪意に人を憎まない努力を。鈍感になる努力を。人と関わる努力を。人を立てる努力や自分を卑下する能力。心がたくさん悲鳴をあげたけど、どうにかして身につけてきた力を、つまらない男が、女が、つまらない言葉一つで粉々にしてくれるのだ。そうするともうどうにもならなくなる。また、私にはない可愛さを羨んで、自分の醜さを憎んで生きる日々に逆戻りだ。

私の闇は暗いけど浅い。私のことを可愛いねって言ってくれる人が、私の生きてきた道や考え方を受け入れてくれる人さえいればそれでいい。たったそれだけのことが、自分のせいでめちゃめちゃ難しいことになっていることもわかる。

嗚呼私は引きこもり拗らせ女流画家也。

紫煙燻らす女流画家

このブログは圧倒的にラークで検索する人が多い。結構昔に書いた記事だし、結局タバコの話はほとんどしてないからかえって申し訳ない気持ちになるので、今さらなんだけど青ラークについてちょっと書く。

私は青ラークの5mmのロングが今まで吸ったことのあるタバコの中では一番好きだ。香り、味が好みなのはもちろんなんだけど、ショートの方だと物足りなくてぱかぱか吸ってしまう。ロングだとわりと満足感があって、5mmだと肺に負担が少なくていい。今でもいろんなタバコは吸うんだけど、最後にはここにもどってくるなあという感じだ。今のところね。

味なんだけど、バニラっぽさというか甘さはあるけどわりとさらっとしている。キャスターみたいなねっとり感がない。セブンスターのバニラ感ともちょっと違うんだよなあ。グラニュー糖よりは三温糖みたいな素朴さとでもいったらいいかな。好き。

後、これは超個人的な事情だけど、わが敬愛中村明日美子先生の、「Jの総て」という作品の中で、Jが口づけをして「メンソール、女たばこよ」と言うシーンがあって、絶対にフィリップモリスのメンソールは吸ってみたいと思っていた。で、初めてタバコを買うのに吉祥寺の煙草やさんに行ったんだけど、フィリップモリスはラークに吸収されたよということで、まあちょっと残念だけどラークで妥協することにしたの。で、赤ラークはラークで青ラークはフィリップモリスの味っぽいよと言っていたので青ラークにしたの。

まあなんで煙草の話になったかというと、久しぶりに青ラークにしようと思っていつもタバコ買ってたコンビニに行ったら売ってなくて悲しかったんだよ。どこに売ってるんだろう。はあ。

ここ数日人間関係がもうだめだ~という感じで、昨日限界を超えたので今日はもう考えるのをやめて絵だけ描いていた。現実を手に入れるためにはパーマネントホワイトとジンクホワイトとどっちがいいんだろうみたいなことだけを6時間も考えてると、だいぶ心がすっきりした。そういう意味でも絵画は私にとってなくてはならないものだ。お薬とか逃げ道とかとしても、ね。

私とか私の気持ち、人間関係はもやもやぐちゃぐちゃしてるのに、私の絵は、光があふれている。光しかみたくない。視界がホワイトアウト

 

 

ギターの音がノスタルジックに

中村明日美子先生原作、「同級生」見てきた。作画はまあ明日美子先生の絵ではないんだけど、明日美子先生リスペクト!作品リスペクト!というのが伝わってくる絵だったし、押尾コータローのギターが最高だった。神谷浩史の光も野島さんの佐条も中の人を感じさせない熱演でとてもよかった。

映画が始まる前のCMやらを見ながら、唐突に「感動するってすごい。好きって気持ちってすごい。」ということを考えた。私にはまだ出会っていない本やら映画やら絵やら音楽やら無数にある。

心が動かされるっていうのはどういうことなんだろう。感覚としては知っている。でも、作品を見たときに起こる感動って、中々説明するのが難しい。共感という言葉がまあ一番近いところではあるんだろうけど、それでは語り切れていないところが多いのではないかと思う。

例えば今日、「風が吹いている」という本を読んだ。陸上少年の本で中々面白かった。陸上に打ち込んでいることや、努力をしているということについて私は共感することができる。私にも陸上ではないけれど何かに努力をした経験がある。自分の得た痛みを主人公に重ねるのだ。もう一度その痛みを、美化の進んだ記憶から都合のよい形で引っ張り出して、作品として美しい形に集約されたそのヒロイズムに酔う。これをまあ共感という風に呼ぶのだろうな。でも、これがイコール感動と言えない気がする。私が言葉にできていない部分というのはなんなんだろう。

この本の中のどっかで、走っていてノッて来た時にエクスタシーを感じる、この景色を見るために走るんだ!みたいな表現があって、これだ!と思った。

これは今までも何回か言っているんだけど、私は絵を描いていて、エクスタシー!みたいな瞬間がたまにある。現実が!今現実が画面に!私の手の中にある!光があるって、影があるって、形があるって、世界って、なんて美しいんだ!……という瞬間。この瞬間、私はほとんど肉体的快感を得ている。だから絵を描くのをやめられない。私は絵を描くこととか絵を見ることが好きなわけだけど、それはつまり絵を描くことで得られる肉体的快感を欲しているというわけなんじゃないかと思う。これが、好きっていう感情なんじゃあないだろうか。

それから、絵に対する感動とか、音楽に対する感動って、勉強で得られる快感に近いと思う。物事がつながっていく快感。伏線と結果がつながっていく快感。自分の見た景色と絵が重なる快感。知っているフレーズが自分の知っているのとは違う形で使われているのを発見する快感。感動っていうのも結局のところ快感に由来しているんじゃない?

心が動くということは、結局のところ体がなにがしかの反応をしているってことだよね。なんかよくわからないアドレナリンとかセロトニンとかそういう物質が分泌されましたよってことでしょ?考えるのちょっとめんどくさくなってきたな。

ものとか人とかが好きっていうのも、なんだかんだそういうことのような気がしてきた。恋愛感情なんてその最たるものだよね。

まあつまりは何が言いたいのかって、神谷浩史は最高だし、中村明日美子も最高ってこと。じゃあおやすみ。