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私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

嘘か真か

今日気が付いたのだけれど、私はノンフィクションが苦手だ。

フィクションであればそこに自分を好き勝手に入れ込んで悲しんだり楽しんだり共感したりすることができるけれど、それが実際に起こったことであったり、事実をもとにしていることが明らかな創作であったりするとで絶対に無理だ。そもそもその土俵に乗らないというか、創作物に関しては嫌悪感さえ覚える。受け付けない。

実際に起こって生きている人の感情が絡んでいること、それでいて私の人生とかかわりがない人を、自分の生活に組み込んで悲しんだり喜んだりして消費することにとても嫌悪感がある。そういうことをしている人に対してもほぼ同質の嫌悪がある。そういうものを積極性をもって娯楽として提供している人は最悪だ。それも自分のものならまだしも、他人の努力や悲劇を売る人は本当に本当に最低最悪だと思う。

だって気持ち悪いじゃないか。私も同じような境遇だからわかるとか、絶対にありえない。わかるのではなくその人は、自分の不幸や努力(これはまだましだけどあるいは幸福)に陶酔するきっかけがほしいだけなのだ。それも、話題性があるより大きな不幸や幸福に依存することによって、自分のそれも増幅させて他人にひけらかし、楽をして自分を満足させているのだ。他人の不幸を利用して!

 

その一方で、私は私の人生を、幸福を、不幸を消費してほしいと強く願っているのだ。理解されないことは承知で、それでも理解されたいと思うことをやめられないし、私の幸福や不幸が他人に影響することを願ってしまう。絵画をとおして。文章をとおして。音楽をとおして。

それはでも、私の中で他人に消費されるために昇華されたもののことで、私の不幸や幸福を現在進行形の時に、私の人生に何も責任を持たない人が干渉してくるとしたらやっぱり傷つく。

 

こっちを見て!という欲求は誰もがきっと持ち合わせているよね。他人の不幸を利用してでも私の方を見てほしいというのは衝動としては私にもあるよ。どうしようもなくあるよ。でもだめだよ。本人が昇華していないものを、本人がいないところで消費するのは、やっぱりだめだ。絶対に。