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受容を強要するなyo

最近好きなラジオ番組に、高橋みなみ朝井リョウヨブンのことっていうのがある。それを聞いてた時に思ったことを書くね。

前回は共感するということが求められすぎて、フィクションのフィクション性が理解できない人が増えてるという話題があった。番組での具体例は、不倫の小説に対して「ストーリーがつまらないです」ではなく、「不倫はいけないと思います。共感できませんでした」と言う人が増えたよな、というものだった。

確かにその通りだよなと思う。フィクションはフィクションだからいいところとか許されることとかがあるのに、それを解さない人っている。

その一方で私も、共感とかカタルシスとかに過度の重点を置いているきらいがある。辻村深月が好きなのなんかはまさにそれだよな~と思うし。でも朝井リョウだって相当共感系作家だよね?朝井さんと辻村さんなんてそれはもう私たちの世代には二大巨頭の共感系作家と言えると思う。(朝井さんはリア充、辻村さんはオタクが上手い。おすすめ。)それでも、その程度のフィクション性にも耐えられない人が増えているってことなんだろう。そのうち、ハリーポッターに対して「魔法なんて非科学的なもの、共感できません」なんて言い出す人がでてきたりして。まるでホラーね。おっと閑話休題

でも、そうじゃなくてもきちんと好きになれる。共感じゃない小説をフィクションとして楽しめる。共感系じゃない好きな作家って誰だろうかと思い返すと、ダントツで伊坂幸太郎なんだよな。伊坂の小説はめちゃくちゃおもしろくて読後感がいいけど、あとを引きずらない。完璧にエンタメなんだ。その上できちんと背骨が通ってるというか、きちんと哲学だってあるところが最高にいい。こういう楽しみ方を忘れずにいよう。村上春樹もこの類いかな、と思うけど、彼の小説には人生狂わされてる人もたくさんいるようだからどうかな。

よくよく考えてみたら江戸時代だって人形浄瑠璃曽根崎心中が流行った時には男女の心中が流行ったらしいから、フィクションと現実をごっちゃにしちゃうの、実は時代は関係ないのかも。

こんなに長々話しておきながら、本題はここじゃないの。これを聞いた時に、おんなじ種類の気持ち悪さを感じる最近の社会の風潮に「受容の強要」があるよなあ、と思ったの。

ここ数年、特にネット上で、受容的であることとかニュートラルであることがものすごく強く要請されていると思うんだけど、どうかしら。受容的であることはいいことだと思うけど、それを履き違えてる人が増えてるというか。なにか突出した主張を持つことが嫌われるおもむきが強い。すぐに叩かれる。すでに息苦しいけど、さらに最近は、自分はこうは思わない、自分はこうするべきだと思う、という一意見をいうことさえ難しくなっている気がする。これは結構危険じゃないか?

これの具体例はてぃ先生のツイート。内容はよく覚えてないんだけど、保育士の彼が現在の実情を彼なりに踏まえて自分の保育論を述べただけのツイートのはずが、随分噛みつかれていた。「その実情を否定するのはどうなんだ」的なリプライがぶわあああってついててすごい気持ち悪かった。しかも彼の意見は十分そうなってしまう実情を汲んでいたし、それでもより良く変えたい、変えた方がいい、という話だったのに、「その変革では良くならない」「こうした方がもっと良くなる」という意見ではなく、「他人の意見を受容しろ、否定は許さない」という、非建設的な感情ばかり。他人に受容を強要する前にお前がまずてぃ先生の意見を受容しろ。受容的であろうとするあまりに他人を否定しているんじゃあまるで喜劇だぜ。意図せず下手くそなピエロを演じてしまっている醜態に早く気づけよ。

最近こんな風な変な歪みが多いよ。病んでるのと紙一重だ。