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私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

絵を描く人

描かなくても生きていける。だからこそ描くんだ。

私には空っぽの3か月間がある。絵を描いていない、勉強もしていない、ただ呼吸を続けていただけの時間が。最低限の授業には出て、誘われればご飯くらいには行ったような気がする。他の時間はひたすら寝て、飢えない程度に食べられるものを口にして、眠ることにも飽いた時には手元にある活字を目で追った。空っぽというより他に言いようのない3か月間が私には存在する。

そこにたどり着くまでのおよそ1年間、私は締め切りやらサークルの催し物に忙殺され、休みらしい休みが取れなかった。その前の1年も生活するのに必死でおよそ余裕というものが存在しなかったから、大学生になって初めて、自分でやりたいことができる時間ができたのだ。初めは何をしようか、どんなことができるか、少しゆっくりして活力をたくわえたら動き始めるつもりでいた。けれども一回布団にもぐったら、そのあと戻ってこられなかった。何に迫られているわけでもないし、やりたいことができたらやればいいやと思っていた。でもそんな日は来なかった。ずっとずっと薄暗い部屋の中で、考えることさえもなく、ただ小さく蹲っていた。

なぜ空っぽの3か月に終止符が打たれたのかと言えば、何ということはない、新学期が始まったから、それに伴って締め切りができたからだ。要するに必要に迫られたのだ。別に休もうと思って能動的に休んだわけではなかった私は、また動こうと思って能動的に動いたわけでもなかったのだった。

そして私は受動的に生活を取り戻しながら絶望する。一度も絵を描きたくならなかったことに。食べて眠りさえすれば生きてしまえるということに。そしてはじめて問いなおす。どうして絵を描いているのかと。

 

締め切りがあるので3か月ぶりにキャンバスの前に立つ。前と同じように資料を用意する。前と同じように下地を作る。前と同じように下書きをする。前と同じように描き始める。前と同じように……?私は今までいったいどうやって絵を描いていたのだろう。どんな色を使って、どんな筆を使って、どんな油をつかって……?いやそんな表面的な問題ではない、本当に私は今までどうやって絵を描いていたのか、なぜ絵を描いていたのかがわからなくなってしまったのだ。結局絵の具とキャンバスを無駄にしてつまらない絵を、なんの身にもならない絵を描いて、私はまた呆然とする。

 

私を救ったのは光だった。光があるということだった。光を描くということだった。それはつまり影を描くということでもあったし、形を描くということでも、色を描くということでもあった。私はそこで、絵を描くことが楽しいとか、辛いとか、見ることで発見するとか、考えるとか、つまりは描くということを再発見していくのだった。

私は絵を描かなくても生きていけるけど、それでも絵を描くんだ、と思った。描くことでしか伝えられないことがあるとか、絵画よりもいいメディアが、ツールがあるとか、そういうことじゃない。何か言いたいことがあるとかじゃない。そういうことじゃねーんだよ。絵を描くことは好きだけど、好きとか嫌いとか、そういう話でもない。ただ、ただ描きたいんだ、描くんだ、私は絵を描く人なんだ。それだけなんだ。それだけなんだよ。