@世界

私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@huantokyomu

それだけさ。ただし、それは諦めではないよ。

1こ下とか2こ下の後輩たちの作品を見たり話を聞いたりしていると、ああ、思想は違えどかつての自分もこんな風にとがっていたし熱かったなあと思って懐かしいような悲しいような苛立たしいような気持ちになる。今の私に情熱がないわけではないのだけれど、その質や方向は全く別のものに変わってしまっているし、そもそもの温度が下がってしまっているような気がする。

中学生の時に書き始め、高校生の時にはその詩を作品に昇華した。1年の時に主張やら鬱屈やら不満やらがあふれていて、言葉にせずにはいられなかったし、2年の時だって考えたことは言葉にしないと消えていってしまうということが怖くて仕方がなかった。でも今はほかの人に押し付けてまでどうこうしたいというようなことは一つもないし、ただ絵を描いていれば満足だ。ちょっと前までは、自分にそういう変化があったことやその熱さが失われてしまったことが怖くて仕方がなかったんだけど、最近はそれすらない。自分がのぞんだ形はこうだったのだということがわかる。

それがどんなに無為なことに思えても、つらいことよりは自分が楽であることや楽しい状態であることを幸せと認めることにしたのだから、これは正しい状態なのだ。昔みたいな言葉はもう私の中にはないし、同じ質の情熱も私の中にはもうない。今の私にある情熱は、ただただ絵の具で現実を捕まえるということだけなのだ。

美学のセンセイがそんなのはこれからの時代どこにも必要とされないといったけれど、そんなことは上等だ。私は絵で何かをどうこうしたいわけではない。それはどちらかといえば教育でやりたいことであって絵画がやるべきことではないのだ。絵画を鑑賞するのが好きという人がいた時にその人が見てなにがしかの感情の揺れ、それも私の場合は絶対にプラスの方向がいい、がもし起こったら幸せだなあということ以外に何も望みはしていない。自己満足だよ。何が悪い。その表現によって私という一個の人間が幸せになれれば、それはすでに力であるのだ。

あとは自分を幸せにすることだけなのだ。自分と、自分の幸せに必要な人を幸せにするだけ。努力のうえでようやく手に入れた穏やかさをみすみす捨てることはないよ。自分がそうしたいと思うことを、そうなりたいと思う風にればいいんだ。それだけさ。