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私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

私は絵を描く人になりたいの

職人的に絵を描きたい。芸術家ではなく職人になりたい。それは芸術家になるよりもっと大変なことかもしれない。芸術家の成功はおそらく表現をすることだ。自分の言いたいことを言えたら価値であり勝ち。伝わればなお良し。では、職人の成功とは?ものとして価値のあるものを生み出すことだ。日常に在ることで、絵画というモノとしての価値を持つものを作ることだ。ある人の言葉を借りるならば、少なくともまっさらなキャンバス以上の価値のあるものを生み出す技術と力がほしい。

昔絵描きが社会的にも職人であった時代、絵の面白さというのは単なる写実ではなく、神話やイコン・聖書の一部として、或いは現実のパロディやアイロニーとして、物語を含み、それが絵画のモノとしての価値を高める一つの大きな要因であったことは疑いようもないことだ。その中で、ものをものとしてただ描いて最大の価値を持たせたのはセザンヌだ。本当にすごい。本当に本当に本当にすごい。田原マハの小説でいうところの、「リンゴ一つで世界をかえた」ということ。それまでにも少数ながら静物画で身を立てていた人はいるけれども、寓意や象徴性も一切なしに、ものを描いて世界を変えたのは、私の知る限りではセザンヌただ一人だ。私もそれがしたい。

スーパーリアリズム、と呼べるものに、最近ようやく指先がかすかに触れたような気がする。ただ単に、現実と比べて間違っているところはいちいち直していくというただそれだけのことだ。より正確に世界を見つめ、自分の目に対して誠実であればそれでいい。大切なのは、自分の見たものに対して絶対に嘘をつかないことと世界に対して感動し続けることだ。その、「絶対に嘘をつかない」という部分が、やっと体で理解しつつある気がする。淡々とより正しいものを目指して画面を直していると、頭の中がすっきりして、気分が高揚して、視界がクリアになる。それは自分の中に一つ、より美しい世界を閉じ込める作業なのだ。つまり私は絵を描くことが好きなのだ。表現することではなく、絵を描くという「作業」が。

これは多分私に向いているんだと思う。昔からそうだ。過剰に表現しようとすると良くならない。表現したいという欲求や想像力とか世界観みたいなものは、元々は人一倍持ち合わせているんだけど、それを絵画やデッサンでしようとすると、なぜか絵がダメになる。感情的にならないで、見たものを過不足なく描くことが大事だ。表現したい気持ちをぐっと押さえて書くこと。ただ単にその方が私に向いているって話だ。でも本当は、きちんとモノとして価値のある絵画を描いてその上で私の感情や感動はほんとは伝えたい。伝えたいな。