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私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

悲しみの位置

パリが攻撃を受けたことについて、それに対していろんな人がいろんなやり方で哀悼の意を示していることについて、その示し方について、いろんな人がいろんなことを言っていて、私も思うところを書く。

 私の基本的な立場としては、亡くなった人たちを思って悲しむことはしない。それは意思を持って絶対にしない。それには二つ理由がある。

人の意思によって又は自然の災害によって残酷な亡くなり方、悲劇的な亡くなり方をする人は国内外問わずいつでも一定数存在する。その事実を私は認識しているが、その人たちを思って毎日悲しい思いをして暮らしているかというとそうではない。そういう人たちがいるという知識を持ったうえで日々自分とその周辺事項のことに一喜一憂しながら生きている。

ニュースや本で見る、いたたまれない事件や悲劇に対して、感情移入をすることができないわけではないし時に悲しみの感情が生まれないわけではない。ただ、それらに対して一つひとつ感情を揺り動かされていると生きていくのが難しかったし、目に入らないはんいでもそういったことは悲しいことに無数起こっているわけで、それら全てに平等に悲しまないのに、それが起こった場所やそのわかりやすさに応じて悲しんだり悲しまなかったりするのは私の中の論理が許さなかった。というのが理由の一つ。

 それから、嘘か真かの回で長々と述べたけれども、当事者でない人たちがその事件を借りて悲しむのってどうよ、という気持ちがある。これが二つ目の理由。

 パリの事件に限らず、東日本大深度の時にも思ったことなんだけどね。フランスにいる友人の無事は確認できているし、震災の時も多少不便は被ったものの私の周辺の人々は無事だった。必要以上に感傷的にはならないし、悲しんだりはしない。

 

というのが私の主張。国際的な見地から、政治的な見地から、いろんな人が色んなことを言っていて、いいことを言ってる人もつまんないことを言ってる人もいるけど、私は私の感情から、こういう風に思っているよ。