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私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

法螺吹きの美少女、立体になる。

久しぶりに中村明日美子先生のウツボラを読み返していた。ウツボラについてはかなりいろいろな説が出ていて、それ自体がこの作品のミステリとしての純度の高さを物語っていることだなあと思う。いまさらながら思い立ったので、現時点での私なりの解釈を書き綴りたい。

 

元々、読んだときはさっぱり意味がわからなくて、でもとにかく面白い、読後感がいい作品だという印象だった。謎が解決していないにも関わらず、絵の美しさ、耽美さ、カタルシス、ストーリーの面白さだけで読ませることのできる一級品の作品なのだけど、それでもこの作品の最大の魅力は、解決し得ない謎、物語に隠された秘密であることは間違いないだろう。

私の考えではこの謎はもともと解決し得ないように作られている。謎は謎であり続けるから人々の憶測を呼んでやまないし、答えは隠され続けるからこそ甘美であり、正解がないことによってこの物語は完成しているのだ。まるでマニエリスムの絵画のように。モナリザのように。

だから、私は正解がない状態が正解なのだというスタンスなわけなのだけれども、その点も含めて、ウツボラの孕む謎について、ひいては作品そのものについて、愚見を述べたい。なお、作品の内容に深く触れるので、作品を未読の方はそれを了承したうえで読み進めていただきたい。

 

まずは一巻の冒頭部「世界には二つのものしかないとおもっていた。「こっち」と「あっち」だ」という科白がある。これは物語全体にわたってカギとなる科白だ。こっちとあっちというのは桜と朱のメタファーであると同時に明日美子先生の作るウツボラと溝呂木先生の書くウツボラのメタファーでもあり、溝呂木先生の(藤乃朱の)書いたウツボラの引用でもある(これは作中に出てくる原稿用紙との一致を根拠とする)。そのあとに続く、「こっちがなければあっちもない、あっちがなければこっちもない」と「世界の境目がわからなくなった」というのも、今後の二人の存在のあり方を暗示する伏線となっている。

そのあとすぐに一巻で、刑事さんたちのダイアローグに「右の目と左の目は見えているものが違っていてずれている。ぴったりくる方が利き目」「じゃあどうして目は二つあるの」というのがある。先生が気を失っている間だ。その問に対する答えとなる科白が二巻の中盤より少しうしろの方に存在する。「つまり、そのずれこそが肝心なのだ。ずれのある二つの視点こそが立体的な視界を可能にしている。」これは刑事さんが秋山富士子としている人物が気を失っている間の話だ。

 こっちとあっち、二つの視点というのは桜と朱のメタファーであるので、つまりこれは、桜と朱の存在のズレ、矛盾こそがリアルであると言っているのだ。これが私の「正解がないのが正解」としている根拠である。

 

 次に「三木桜」と「藤乃朱」という人物、その二人の持ち合わせているずれについて。

まずは藤乃朱の方から話をしよう。藤乃朱、元々は秋山富士子だった人物だと考えて差し支えないだろう。昔から熱狂的なファンで、夢日記を溝呂木に送っていた都内の大学生。三木桜とは図書館で出会ったという事実は片方が死んだ後の設定としても受け継がれている。パーティーで朱を名乗って溝呂木に会っているのは三木桜の方だ。これも(おそらくは意図的に)ぼかして書いてあるのでわからないが、この時点ではたぶんまだ秋山富士子は整形をしていない。

三木桜、という人物はほとんどデータがない。秋山富士子を整形外科に紹介した浅何某という横領容疑者のOLであろうと思われる。この浅何某さんも三木桜になるために整形していることがうかがえる。三木桜という名前は本の頭文字からとられているが、それが溝呂木作品であるかどうかは定かではなく、彼女がどの程度の溝呂木ファンなのかは未知数だ。

 この作品の最大の謎である、死んだのは桜なのか、朱なのか、というところに迫っていきたい。ただしここにはいくつかの不明な点(意図的にそうされている点)や矛盾点(冒頭部でいうところの必然的なズレ)を含んでいる。

 作品の前半では、死んだのは藤乃朱だとされている。しかしその根拠となっている携帯番号、その時点で先生が朱だと思っているのは、桜の方である。その後、整形外科がつかまり秋山富士子のカルテが見つかり、三木桜と名乗る人物が秋山富士子のアパートにいるところを見つかったことから、死んだのは浅何某で、生きているのが藤乃朱こと秋山だという線が濃厚になり、終盤までその流れで進む。先生も、「君が朱なんだね。いや、朱も桜もない、君がウツボラの作者なんだ」という言葉を残している。

 さあ、ここから先が難しい。最後に先生が「君はウツボラの作者じゃない」という。はきとした答えを彼女は出していない。しかし表情はや展開を見ると、肯定ととれるのではないかと思う。しかしこの、「ウツボラの作者じゃない」というのは、言葉のままの意味なのかは謎だ。また、先生は、「僕はウツボラの作者に一回きりしか会っていない」とも、言っている。もしそれが本当だと仮定すると、時系列がかなり複雑になってくる。

 まずは秋山富士子が藤乃朱というペンネームでたくさんのファンレターを送っている。ウツボラをしたためているのもこの時期であろう。その後図書館で三木桜と名乗る人物とであう。おそらくはこの時既に彼女の方は整形を終えている。(髪の色から推測するが、顔が映っていないので確かではない)二人は時折会うようになるが、一方的に桜が富士子の家を訪れるという形態をとる。その後朱と桜はそれぞれ藤乃朱の名でウツボラを新人賞に応募し、一つは溝呂木の手に、一つは編集者辻の手にわたり、どちらも表に出ることはなかった。その後溝呂木が盗作をする。ウツボラが溝呂木の名で世に出た後、桜は朱の名で溝呂木に会う。これは髪型の時系列からほぼ間違いない。この時点ではまだ富士子は整形をしていない。そして二人とも髪が長い。おそらくこの後すぐくらいで顔を変える。富士子の顔が変わったとき、桜は髪が短い。飛び降りた女の髪は長い。このことから、飛び降りたのは、おそらく富士子だ。そして死ぬ前に一度溝呂木に会っている。死ぬ前に朱(と名乗った桜)に3、4回会っていたと供述しているどれかをさしていて、具体的にその場面が描かれているわけではない。その後富士子は死に、桜は朱として、桜として、二人の人生を同時に生きることとなる。その過程で自分がどちらを生きているのかわからない自己の乖離感に堪えられず一度辻に抱かれている。

しかし整形の経過を見る場面や、辻に抱かれた時点で処女であったことが匂わされているあたりは生きているのが富士子であると思わされる。また、先生の発言のなかで、朱というのは読者という存在のメタファーにもなり、そもそもウツボラを描いたのが朱ではないような言い方や、富士子と浅何某のどちらが朱であるのかがわからなくなっていくような言い方をしていき、事実どんどん曖昧になっていく。それは小説ウツボラの記述にもあるところで、明日美子先生の意図するところでもあると思う。

富士子がウツボラを書いたことはほぼ間違いない。そして、ウツボラのキャラクター(登場人物)となり、溝呂木の人生に登場してウツボラを現実に生きることを選んだのは桜の方だ。それは富士子の望んだところでもあり、それが「ありがとう」という科白につながっている。二人で一人を生き、途中からは、1人で二人を生き、先生の作家としての生を蘇生させる目的で、富士子の死までもがあらかじめ二人に仕組まれていたストーリーであろう。(「自殺 そうかもしれない」の科白より)その結果溝呂木自身がウツボラを生き、自殺することを予測していたかどうかまでは定かではない。

 

と、いうのがまあ大まかな私の見解のわけだが、死んだのが桜にしても朱にしても違和感がのこるし、その違和感こそが魅力だ。最初の繰り返しだけど。

 

いやあこんなに長々かくつもりじゃなかったんだけどな。すっかりおそくなっちゃったよ。アフターダークの感想もそのうちかく。そのうち・・・・・・。