@世界

私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

生きることは恥ずかしいなあ

何かたくさん感動があったような気がするけどあまりよくわからない。

たくさん伝えたいことがあって自分の中でうまくまとまってもいない、相手にとったらどうでもいいかもしれないことをペラペラとまあよくしゃべり、思い返すと逐一恥ずかしくなる。言葉が届くかどうかというのは、こっちの伝え方が半分、向こうに受け取れるだけの気持ちと経験があるかが半分だと思っているので、どれだけ伝わっているかはわからないけど、でもまあ一人くらい、一言くらい、何か届くものがあったならうれしいなという風に思っている。

なんかすごくよくわからないのによくわからない理由でめちゃめちゃ感動してしまって腑に落ちない気持ちだ。未だ若干高揚感が残っていて、どうしたらいいのかわからない。なんでわたしは感動してるんだ。

都合のいい健忘症だ

どうせ言葉がまとまらないとわかっているのに書くのは億劫だ。

電脳コイルを見た。四畳半神話大系も。今は夏目友人帳を見ている。伊坂のガソリン生活を読んだ。でも、最近は文字が読めなくてアニメばっかりだ。次はあの花が見たい。

電脳コイルは小学生と大人の距離感とか価値観の違いの描き方がよかった。四畳半神話大系はアニメーションが最高によかった。デザイン性も高い。原作をまったく崩さず別の作品としてここまでクオリティが高い作品は初めてだ。ガソリン生活は伊坂らしく普通によかった。感想終わり。

3日間の引きこもりを経てちょっと立ち直った。でも、引きこもっていた間にたまった用事とかで色々やばい。

ここ数週間あんまり辛かったから誰かに面と向かって助けてって言いたかったんだけど、誰も呼べないことに気がついた。私は実は友達がいないのかもしれない。さみしくなった。

親子丼を作った。見た目は悪かったけど美味しかった。鶏肉は安くて嬉しい。

最近昔のことを思い出せない。というかむしろ今まで覚えすぎていたのだと思う。辛いことや傷ついたことがあっては反芻していたのだから忘れられなくて当然だよな。それに、許していたつもりで許せていなかったのかもしれない。ようやく辛いことを忘れてしまえたと思ったら、昔の記憶がほとんどなくなってしまって、やれやれだ。これからは幸せだった記憶を反芻して覚えて生きていこう。

 

最近のわたしときたら何が@世界だ

最近辛いことが多いのでたくさん言葉にしているんだけど、面倒で途中で書くのをやめてしまった下書きがたくさんたまっていく。まとまらずに、誰にも見られることもなく、ただ私の怒りを静めるためだけに、あるいは辛さを和らげるためだけに紡がれた、中途半端な言葉たちが、1万字近く、ただただ折り重なっている。

私の努力が足りないのはわかっているけど、半端にがんばっているから完全に自分を責めきれなくて、だからなんにもならない。少なくとも、他人を巻き込んでいることだけはどうにかしなきゃいけないなあと思うんだけど、わたしのやることなすこと、大体は少なからず他人を巻き込んでいるんだから、全部頑張るよりどうにもならない。多分精神的なものなんだけど、ずっと体がだるい。すごく健康的な生活をしているのにも関わらず。どうやったら私の精神は健康になるんだろう。

とりあえず自分の悪いところは全部直してみるくらいしかない。

底なしの底という名の底

いつもいつも精神が不安になると文字を書くので、このブログを読んでる人はきっと私がめちゃめちゃ精神の不安定な人だとおもっているかもしれないけど、そんなにずっとずっと不安定なわけじゃないよ。今はめちゃめちゃ不安定だけどね。

どうしていいかわからない。ただただ急に不安なの日常のいろんなことが。そんでもってその日常が崩壊してしまうのではという強迫観念に駆られて死にたくなるの。私のせいでもうなにもかもめちゃくちゃになっちゃうんじゃないかとか、いろんな人に疎まれているんじゃないかとか、迷惑をかけすぎているのではとか、それはきっとたんに妄想じゃない事実だよねもう私なんて死んだらいい。誰か助けて。大丈夫だって言って大丈夫にして。

生理前で体も冷えてて寝不足で胃の調子が悪くて、って調子で体の調子が悪いからなんだよってわかっているのにどうにもならない。さっさと精神科に行って薬をもらって来い。

大学生協伊坂幸太郎のガソリン生活が文庫本になったよって売ってた。欲しかったけど絶望的にお金がないので諦めた。最近は自炊をするなどしてあんまりお金を使わないように、なるべく健康になれるように生活している。人と一緒にいるとすごく楽しいような気がするけど、誰にも会わずに絵だけ描いてちゃんとご飯を食べてちゃんと寝られたら私はかなり満足して生活できる。私も休学して部活もやめてそういう生活したいしそうじゃないと死ぬって思いながら、最後の最後でいつも引き止めるのは両親がこの生活をさせてくれていて、稼いでくれていて、期待をしてくれているということだけなんだよ。それだけ。死にたい。

文字に書くことや絵に描くことでしか救われないことがつらい。人間に救われたい。

非常階段の上にて

研究室の裏戸を開けると満開の桜が見える。下級生たちがわらわらとやってきてうるさかったから逃げてきただけだったはずが、思わず見とれてしまう。煙草に火をつける。灰がひらひらと舞い散って、桜の花びらに紛れていく。煙に混ぜてため息を吐き出した。寒の戻りだ。肌寒い。緩やかに、しかしあっという間に体がつめたくひえていく。同じ景色を見る人がいる。言葉が交される。終わるタイミングをつかめずにつらつらと、ぽつぽつと、ひらひらと、噛み合っているのかいないのか、言葉も花びらと一緒。灰とともに紛れていった。

うまくいかないことばかりだ。自分が嫌になるばかりだ。人間と関係していくということも、絵を書くということも、勉強するということも、努力をするということも。うまくいかないことばかりだ。毎日ヽヽ気持ちが沈み、また高揚することに体がついていかなくて。ふっとしたとき、言葉を発した自分が、私という誰か別人格に見える。私はそんな私を見つめながら、こいつはなんでこんなことを言っているのかって。「なんでそんなこと考えちゃうんですか?考えるといいことないですよ。」知っているよ、そんなこと私だって。私だって、知っている。知っている?知って……?遠く、曖昧になっていく。

過去も未来も現在も朧な今に、思うことは一つ。この美しい景色も、記憶も、絵の具の粒子の一粒となって私の絵となれ。そうして私を救ってよ。

昼間の桜メンヘラ女

今読んでいる本はモームのお菓子と麦酒。本当は月と6ペンスが読んでみたかったんだけど、なかったから。聞いている音楽ははちさんの曲。辛くてちょっとジャズは無理。無理。

最近人間関係の歯車がガラガラおかしくなってる。噛み合わないよ。どうして。他人に色々求めすぎているのかな。努力が足りないのかな。どっちもあるよね。

なんかやりたいこととかやらなきゃいけないこととか多すぎて到底自分にはできそうもなくてだからやる気もでなくて全て爆発四散すればいいし私は死ねばいいみたいな気持ちになりがち。

最近考えるということが復活してきてそれに伴って辛い気持ちになりがちなんだけど、ちょっと前は考えられないことに恐怖を感じていたのだしもうどっちでもいいしなんでもいい。でも幸せになりたい。

優しくしたいし優しくされたい。愛したいし愛されたい。

楽しい時には死にたいし、嗚呼もうなにもかも終わりたい。何者にもなりたくない。素直になんかなりたくない。誰かこっちを見て。誰か助けて。

まったくため息がとまらないよ。

最近酔っ払ったおじさんにセックスの話を強要されるみたいな事態があって、それにともなってまたセクシャリティの話とかを色々考えたので書き留めておく。

 私は恋愛とかセックスの話をするのがすごく苦手だ。まず前提としてセクシャリティのはなしをするのと自分の恋バナの話をするのはちがくない?ということ。もっとわかりやすく言うと下ネタと自分の性生活の暴露は違うでしょ?ということ。下ネタというのはセックスとか性器とかにまつわる事実にウィットを効かせてジョークにするということで、別にそれは気にならないというか、冗談として面白ければよし!みたいなふうに思うんだけど、それと自分の性生活の暴露(例えば誰とセックスをしたとか何をおかずに自慰をしたとかそういう話)をごっちゃにしている人がたまにいてそれは全然笑えないし聞きたくねーよという感じ。伝わったかな。

 それで、セクシャリティとはどういうことかとか、自分のセクシャリティ観みたいなものを話す上で、事例の一つとして自分の感情の動きとかを一歩引いたところから話すのはあんまり抵抗がないんだけど、自分が今している恋の話とかキスはどうだセックスはどうだみたいな話を自分のストーリーとして要求されるのはすごく苦手だし嫌。それは、みんなと同じような気持ちで恋愛とかができないというコンプレックスとかもあると思うんだけど、でもそれにしてもどうしてみんなそんな風に恋愛しないと生きていけないみたいな風に思っているのだろうか。どうして恋愛がこの世でもっとも素晴らしいもので尊いものみたいに思っているのだろうか。いや、別にそれは構わないんだよ一向に。そういう人が居ることは知ってるし、ただその人がそうなんだというだけのことだと思うんだけど、自分以外の人もみんな恋愛が最高みたいに思っていると信じているのはなぜなんだろうと思う。そうじゃない人もいるよね?アセクシャルとかノンセクシュアルとかの人だっているよね?別にそうじゃなくてもゲイでもビアンでもヘテロでもバイでも、別に恋愛にそんなに興味がない人だっているでしょ?

 なのに、多くの人は私が恋愛とセックスが生活の中心の女子大生だと信じていて、そのストーリーを消費したがる。恥じらいながら、しかし赤裸々にセックスを語ることを要求し、あわよくばそのストーリーに自分を組み込む夢を見て、私を勝手に消費するのだ。若い経験も少なくて自分の思い通りになる女として。たまったもんじゃないと思う。

 別にね?そういう消費をされることに快感を覚える類の女もいるわけ。だからそういう人とすればいいじゃん。あっちに座ってたずっとパンツが丸見えのビッチだったら喜んでしてくれるでしょ?と、思うわけ。

 それに私の性自認は女で普通に女として見られることが不快というわけではないの。それに私が女としてのストーリーを差し出すことで、自分に得るものがある(例えば慰めや癒し、気遣いや思いやり、あるいは権力を得られる)ならば、それを差し出すことはやぶさかではないの。ただ、自分で売った女を、対価を持った人が買うということと、なんの対価も払わずに人の女をつまみ食いしたいということには雲泥の差があると私は思うわけ。

 すごい話がごちゃごちゃしちゃったんだけど、何が言いたかったのかというと、多くの人が、人は恋愛を中心に生きていると信じ込んでいて、そうじゃない人が居るということに気がつかないということ。それから対価を支払わずに「女」ということをタダ食いするおっさんが多いということ。あとはそれに私が辟易しているということ。長くなっちゃったしわかりにくくてごめんね。