@世界

私の人生を消費して。骨の髄まで美味しくしゃぶりつくして。 ツイッター@世界ID:@at_sekai

ちょっとしたダイエットを兼ねて

ご飯を食べないで絵を描いていると、確実に自分の血肉を消費しながら絵を描いている実感を得られるのがいい。これは食べたご飯が自分の血肉になっているのを実感する快感とはまた別のものだ。自分の命みたいなものを削りながら絵を描いているとそれが絵に乗っかるような気がするのだ。勿論こんなのはヒロイスティックでマゾヒスティックな感傷で自己満足なのだけれど。

でもそれとはなにか違うところで、何かを感じながら絵を描くというのは大切なことだと思う。悲しい時に描いた絵なのか、嬉しい時に描いた絵なのか、そういうのは結構如実に画面にでる。それは悲しみを表現しようとした絵や幸福を表現しようとした絵とは根本的に違う。むしろただの静物画なんかの方がそういう空気観に敏感に反応するような気がする。

だから私は、別にただのヒロイズムでもいいやと思いながら、ちょっとしたダイエットも兼ね、食べずに絵を描いている。何か、何かが宿ればいいなと思いながら。

boys/girls

 隣の子のへこんだ爪の、じくじくと赤い血肉が目に焼き付いている。体育座り、お尻と背中の痛み、肌にまとわりつくワイシャツ、男の子の汗のにおい。男の子は気になるけど、女の子が好きだ。あまいシャンプーの香りと柔らかな肌。抱きしめあっていたら、息苦しい学校生活も何とかなるような気がした。言葉じゃどうにもできない何かは、他人の体温が簡単にうやむやにできるということを、私たちはセックスよりもずっと早く知っていた。恋なんてない方が優しくて嬉しかったからそれでよかった。恋は、そんなのは男の子とすればいいから、今日も手を繋いで帰ろう。

冗談よ、おばかさんね。

私は冗談を言うことが苦手だ。そもそも頭の回転が早くないので、滅多に冗談なんか思いつかないんだけど、珍しくちょっと笑わせてみようと思うとまあことごとく失敗する。今日はそんな話をしよう。

「今日の服可愛いね」なんて先輩が褒めてくれた時の話だ。あまり多くは話さないけれど優しい女の人で、話かけてもらってすごく嬉しかったから、冗談めかして「いつも可愛いですよっ!」って怒ってみせるはずが、「いつもの服は可愛くないんですか…?」ってマジトーンで言ってしまって優しい先輩を苦笑させてしまった。

ちょっと違う話だけど、こんなこともあった。風邪を引いててつらそうな人に「大丈夫ですか?」って言った時の話。「今年の風邪は鼻水が大変ですよね。私もかかったのであなたの辛さがわかりますよ」ということが言いたかったのに、「私もこの間まで風邪ひいてて」しか言えなくて、体調悪いアピールしたいヤバい奴みたいになってしまった。悲しい。

思うように話すのって難しいよね!まあちょっとずつ場数踏んでまともっぽい感じに早くなりたい。

穴埋めに孔を開けた。

廿代も半ばにさしかかって、今さら生まれてはじめてピアス孔を開けた。今までずっと開けたい気持ちよりも体に孔を開ける怖さの方が勝っていたのだけど、最後の1個、お気に入りのイヤリングを片方なくした時に、もう開けるしかないという気持ちになった。ピアスの孔を開けた。

自分で開けるのは怖かったので、病院に行くことにした。受付のおねえさんは目頭を切開していた。ピアス孔開けたいんですけど。どこですか。耳に。じゃあ名前ここに書いて。あ、先払いです。2400円。自分で孔の位置を決めてください。そこにあるマッキーで。細い方使ってね。わからなかったら聞いてください。最初に手に取ったマッキーはインクが切れていた。とりあえずイヤリングの跡が残った場所に点を打つ。左右が対象にならない。擦ったら落ちるかしら。…まあこんなものかな。できました。あら随分大きな点なのね。呆れたように小さく笑う。まあ大丈夫でしょう。じゃあこちらの診察室へどうぞ。

診察室は歯医者のようだった。なんだかすごいスピードで進んでいく。私のした決心のちっぽけさを見せつけられているようだ。視界の端に何か緑色の大きな機械が映る。ピアッサーだろうけれども、見たらよけいに怖くなりそうで直視できない。少し痛みますよと先生がいう。それはそうだ。私の体を針が貫通するのだから。小学生の時に痛覚の通らない薄皮を、おっかなびっくり、でもやめられなくて、安全ピンで刺していたあれとは訳が違う。赤い肉や毛細血管を突き破る感触を、私は生々しく感じられることだろう。

ガシャコン、耳元で突然。思ったよりも大きな音で響く、続けて痛みが、はーい反対いきます、ガシャコン。終わりです。2ヶ月くらいはつけたままに。毎日消毒してくださいね。それじゃ。それだけですか!?なんか頼りないなあ。

じんじんと熱を持った耳の上で、キラキラとチープに光る小さな石。本当に本当に小さくて全然目立たないというのに、ちょっと髪をかきあげる時、服を脱ぐ時、着る時、ぬいぐるみに頬を寄せる時、顔を洗う時、いちいち引っ掛かっては存在を主張してくる。しばらくは慣れないだろう。毎日花に水を遣るように、この傷を管理していとおしむ日々がはじまる。時に面倒くさがりながら、でも膿んでしまうのは怖いから律儀に面倒をみるだろう。消毒液がしみる痛みに顔をしかめつつ、傷を恐れつつ、でもきっと。

私の体には孔が開いた。もうイヤリングを片方落としたり、可愛いピアスを諦めたりしなくていい。昨日までとは少し、しかしはっきりと違う日々を、今さら生きる。別に今さらなんてことはないか。今から生きる。

 

今日の日記、ちょっと金原ひとみっぽい文章じゃない?じゃあおやすみ。あたたかくして眠れ。

受容を強要するなyo

最近好きなラジオ番組に、高橋みなみ朝井リョウヨブンのことっていうのがある。それを聞いてた時に思ったことを書くね。

前回は共感するということが求められすぎて、フィクションのフィクション性が理解できない人が増えてるという話題があった。番組での具体例は、不倫の小説に対して「ストーリーがつまらないです」ではなく、「不倫はいけないと思います。共感できませんでした」と言う人が増えたよな、というものだった。

確かにその通りだよなと思う。フィクションはフィクションだからいいところとか許されることとかがあるのに、それを解さない人っている。

その一方で私も、共感とかカタルシスとかに過度の重点を置いているきらいがある。辻村深月が好きなのなんかはまさにそれだよな~と思うし。でも朝井リョウだって相当共感系作家だよね?朝井さんと辻村さんなんてそれはもう私たちの世代には二大巨頭の共感系作家と言えると思う。(朝井さんはリア充、辻村さんはオタクが上手い。おすすめ。)それでも、その程度のフィクション性にも耐えられない人が増えているってことなんだろう。そのうち、ハリーポッターに対して「魔法なんて非科学的なもの、共感できません」なんて言い出す人がでてきたりして。まるでホラーね。おっと閑話休題

でも、そうじゃなくてもきちんと好きになれる。共感じゃない小説をフィクションとして楽しめる。共感系じゃない好きな作家って誰だろうかと思い返すと、ダントツで伊坂幸太郎なんだよな。伊坂の小説はめちゃくちゃおもしろくて読後感がいいけど、あとを引きずらない。完璧にエンタメなんだ。その上できちんと背骨が通ってるというか、きちんと哲学だってあるところが最高にいい。こういう楽しみ方を忘れずにいよう。村上春樹もこの類いかな、と思うけど、彼の小説には人生狂わされてる人もたくさんいるようだからどうかな。

よくよく考えてみたら江戸時代だって人形浄瑠璃曽根崎心中が流行った時には男女の心中が流行ったらしいから、フィクションと現実をごっちゃにしちゃうの、実は時代は関係ないのかも。

こんなに長々話しておきながら、本題はここじゃないの。これを聞いた時に、おんなじ種類の気持ち悪さを感じる最近の社会の風潮に「受容の強要」があるよなあ、と思ったの。

ここ数年、特にネット上で、受容的であることとかニュートラルであることがものすごく強く要請されていると思うんだけど、どうかしら。受容的であることはいいことだと思うけど、それを履き違えてる人が増えてるというか。なにか突出した主張を持つことが嫌われるおもむきが強い。すぐに叩かれる。すでに息苦しいけど、さらに最近は、自分はこうは思わない、自分はこうするべきだと思う、という一意見をいうことさえ難しくなっている気がする。これは結構危険じゃないか?

これの具体例はてぃ先生のツイート。内容はよく覚えてないんだけど、保育士の彼が現在の実情を彼なりに踏まえて自分の保育論を述べただけのツイートのはずが、随分噛みつかれていた。「その実情を否定するのはどうなんだ」的なリプライがぶわあああってついててすごい気持ち悪かった。しかも彼の意見は十分そうなってしまう実情を汲んでいたし、それでもより良く変えたい、変えた方がいい、という話だったのに、「その変革では良くならない」「こうした方がもっと良くなる」という意見ではなく、「他人の意見を受容しろ、否定は許さない」という、非建設的な感情ばかり。他人に受容を強要する前にお前がまずてぃ先生の意見を受容しろ。受容的であろうとするあまりに他人を否定しているんじゃあまるで喜劇だぜ。意図せず下手くそなピエロを演じてしまっている醜態に早く気づけよ。

最近こんな風な変な歪みが多いよ。病んでるのと紙一重だ。

 

絵を描く人

描かなくても生きていける。だからこそ描くんだ。

私には空っぽの3か月間がある。絵を描いていない、勉強もしていない、ただ呼吸を続けていただけの時間が。最低限の授業には出て、誘われればご飯くらいには行ったような気がする。他の時間はひたすら寝て、飢えない程度に食べられるものを口にして、眠ることにも飽いた時には手元にある活字を目で追った。空っぽというより他に言いようのない3か月間が私には存在する。

そこにたどり着くまでのおよそ1年間、私は締め切りやらサークルの催し物に忙殺され、休みらしい休みが取れなかった。その前の1年も生活するのに必死でおよそ余裕というものが存在しなかったから、大学生になって初めて、自分でやりたいことができる時間ができたのだ。初めは何をしようか、どんなことができるか、少しゆっくりして活力をたくわえたら動き始めるつもりでいた。けれども一回布団にもぐったら、そのあと戻ってこられなかった。何に迫られているわけでもないし、やりたいことができたらやればいいやと思っていた。でもそんな日は来なかった。ずっとずっと薄暗い部屋の中で、考えることさえもなく、ただ小さく蹲っていた。

なぜ空っぽの3か月に終止符が打たれたのかと言えば、何ということはない、新学期が始まったから、それに伴って締め切りができたからだ。要するに必要に迫られたのだ。別に休もうと思って能動的に休んだわけではなかった私は、また動こうと思って能動的に動いたわけでもなかったのだった。

そして私は受動的に生活を取り戻しながら絶望する。一度も絵を描きたくならなかったことに。食べて眠りさえすれば生きてしまえるということに。そしてはじめて問いなおす。どうして絵を描いているのかと。

 

締め切りがあるので3か月ぶりにキャンバスの前に立つ。前と同じように資料を用意する。前と同じように下地を作る。前と同じように下書きをする。前と同じように描き始める。前と同じように……?私は今までいったいどうやって絵を描いていたのだろう。どんな色を使って、どんな筆を使って、どんな油をつかって……?いやそんな表面的な問題ではない、本当に私は今までどうやって絵を描いていたのか、なぜ絵を描いていたのかがわからなくなってしまったのだ。結局絵の具とキャンバスを無駄にしてつまらない絵を、なんの身にもならない絵を描いて、私はまた呆然とする。

 

私を救ったのは光だった。光があるということだった。光を描くということだった。それはつまり影を描くということでもあったし、形を描くということでも、色を描くということでもあった。私はそこで、絵を描くことが楽しいとか、辛いとか、見ることで発見するとか、考えるとか、つまりは描くということを再発見していくのだった。

私は絵を描かなくても生きていけるけど、それでも絵を描くんだ、と思った。描くことでしか伝えられないことがあるとか、絵画よりもいいメディアが、ツールがあるとか、そういうことじゃない。何か言いたいことがあるとかじゃない。そういうことじゃねーんだよ。絵を描くことは好きだけど、好きとか嫌いとか、そういう話でもない。ただ、ただ描きたいんだ、描くんだ、私は絵を描く人なんだ。それだけなんだ。それだけなんだよ。

Reve

それはゆめの話です


少女の袖の膨らむ頃の
桜の花の散る頃の
昼間の月のひかる頃

美味しいお茶はいかがでしょうか
とてもよい香りがします
紅く琥珀にきらめきます

まるで絵画のなかにいるよう
まるでお伽噺のよう

それはゆめの話ですから
あなたもともにいかがでしょうか